お喋り酢桃

ペラペラペラペラ、付き合ってくれたら嬉しいね

私とおばあちゃん、涙がとまらないので振り返る

祖母は死によって解放された。

 

宗教とかじゃない。

 

心からそう思っているはずなのに

悲しくて涙が止まらない。

 

祖母の死

 

 

 

 

私は

小学校、中学校、高校と学校から帰ると

まずおばあちゃんの家に行った。

 

おばあちゃんは私を待ってくれていた。

冷凍庫にたくさんのアイスを入れておいた。

おせんべいを数種類おいておいてくれた。

 

夕ご飯は食べていく?

泊まっていったら?

お風呂はいったら?

お買い物一緒に行く?

おばあちゃんは1人暮らしだったけど、

孫の分のごはんやお菓子、私の大好きな果物など

たくさん買い物して、

いつも美味しいものがでてきた。

 

ほとんどおばあちゃんの家の子供だった。

 

オセロ一緒にしよ?

数独一緒にしよ?

外で一緒に遊ぼ?

一輪車に乗って道路を行ったり来たりして

おばあちゃんに自慢した。

友達をおばあちゃんちに招いて遊んだ。 

 

学校に行っていない時間の

多くはおばあちゃんちで過ごした。

時間さえあればおばあちゃんちに居た。

 

なんだっておばあちゃんに話したし、

なんだっておばあちゃんに尋ねたし

いつだっておばあちゃんは楽しそうにしていた。

そんな記憶ばかり。

 

 

専門学校に入り、

1年目、2年目は私は寮生活を送った。

週に一回、片道3hかけてママチャリを漕いで

おばあちゃんに会いに帰った。

暇人みたいだろうけど、

すっごく暇人だった気はしていない。

おばあちゃんに会うために時間を作っていた。

学校もバイトも頑張っていた。

おばあちゃんは、毎週お習字に通い、

毎日お友達とお散歩に行って、

毎日1万歩を目標に万歩計を持って外へ行った。

歩くのが楽しいとしきりに話してくれた。

 

専門学校3年目、4年目、

私は彼氏と同棲を始めた。

大切な人ができて、2か月に1回程度と

おばあちゃんに会いに行く頻度が減った。

 

帰ったときは、おばあちゃん自身のことをたくさん尋ねた。

おじいちゃんとの出会いや父やおばさんがどんな子供だったか

おばあちゃんの人生を聞いた。

物に溢れ、食べ物に困らず、

孫が会いに来る、好きなときに友達と外でお散歩できる

今が幸せだと言っていた。

 

学校を卒業して、

家族5人と祖母の6人で箱根へ

旅行へ行った。

寒くないからと洋服を貸してくれた。

手を添え、雪道で転ばないように歩いた。

雪がすごくて、予定を変更したりしたけど

とっても楽しかった。

 

寒くない、、、

わからなかっただけだったんだろうね、、、

着ていてもらえばよかった

もう遅い話。

 

 

働き始めて同棲していた彼氏と別れ1人暮らしをした。

 

忙しいながらも楽しい職場で、私は仕事に打ち込んだ。

わずかな時間でも一緒にいられる時間を割いてくれる

パートナーがいたけど

1人暮らしは寂しかった。

 

1人でおうちにいるのが怖かった。だから、

掛け持ちで働いて、休みの日は作らなかった。

 

 

 

おばあちゃんは足が痛み始めた。

入院して、痛みがでないように壊死した足の指を切除した。

おばあちゃんは強ばった顔で他人事のように

指をきってもらったんだと説明しながら私に見せた。

見せてもらった私は弱く、涙が出た。

 

壊死は進んだ。

右足はずっと痛く、訪ねていっても

痛みで他のことを考えられない状態の様子だった。

痛みを取り除くことができないのに、

笑顔をみたいだなんて、自分勝手だって思った。

 

私がお見舞いに病院に行った際、

痛みスケールを測るためのアンケートをしてほしいと

看護師さんに言われたので、おばあちゃんに質問して

アンケートに答えることになった。

 

10段階で非常にそう思うなら10とか

そんなやつだ。

質問は10こ程度。

結果ははっきりしたものだった。

 

生きていることが辛い。10

自分の人生に意味なんてなかったと思う。10

死にたいと思うくらい痛い。10

なんで自分がこんな目にあっているかわからない。10

誰も助けてくれないし、頼れるのは結局は自分1人だ。10

 

 

おばあちゃんが大好きで、

おばあちゃんが幸せで笑ってすごしてほしいのに

わかった思いは悲惨だった。

それだけ長く逃れることができない痛みは

おばあちゃんをボロボロにした。

 

いつものようになんてことない会話をできるわけなかった。

私が訪ねたその時間だって、ずっと痛みがあって、時々シワが深く刻まれて、おばあちゃんの苦しい顔を横で見るしかないのだ。

 

調子が良くて痛みが和らいでいたって、

ありのままの充実した私の生活なんて聞きたくないに決まってる。

 

喜んでくれて見せたって、

いいね、今がいちばん楽しいねえて言ってくれたって

その瞳には絶望が見えていて、

おばあちゃんが自分の今を嘆く要因のひとつにしかならない様子だったのだから。

 

痛みは絶望を与える、温かさは抜けていく。

おばあちゃんは強く生きながら、ボロボロだった。

 

私はおばあちゃんに会いに行くのが怖くなった。

殺してあげたいって

人殺しと思いやりを並べて考え始めて

こちらの精神状態が危険な状態だった。

 

殺して欲しいて願われたら私は殺すしかない

大好きなおばあちゃんの望みが痛みからの解放であり

死ってわけじゃないのはわかっている。

だけど、死はつまり痛みからの解放なのだ。

 

おばあちゃんは優しい人で、真っ当な人だから孫に対して

自分を殺してなんて頼むわけない。

だから、なお私はおばあちゃんの気持ちを

推し量って殺してあげるべきなんじゃないかとか

恐ろしい考えを抱いた。

 

会いに行ってはいけないと思った。

殺す殺さない別にして、そんなことを考え始めて

私は痛みもなにもないのに

胸をえぐられているように辛く死にたい気持ちだった。

 

お見舞いの足が遠のいていく。

会いに行くのは怖かった。

考えるのが怖かった。

 

 

右足を切除することになったと父から連絡があった。

涙が出た。

痛みが無くなるのなら、そうしてほしいと思った

だけど、歩くことが大好きおばあちゃんが足を失って

何か楽しみを見いだせるのだろうか

そんな風に思った。

切除が決まった後に

おばあちゃんがどう思っているかなんて

改めて聞いたわけじゃないからわからないけど

私はもうやめてあげて欲しかった。

 

切除後も痛みは無くならなかった。

 

 

 

入院が続き、外を見ることができない日々が続いた。

お見舞いに行かない日々が続いた。

 

 

左足も痛み出した。

どうやら切除はできないようだった。

年が年だった。

 

 

不意に連絡がきた。

コロナ渦だけど、もうそろそろ危険な状態だから

家族の方は早めに会いにきてくれと招集がかかった。

 

久しぶりに会いに行った。

もう細いとかそんなレベルじゃなかった。

涙を堪えた、

口を開き、おばあちゃんに声をかけたら

おばあちゃんと話をしたら

大声で泣き喚いてしまいそうなほど

どうしようもない感情に飲み込まれた。

 

もう何も言わないでほしかった。

もう何も言いたくなかった。

笑顔になれるわけもなく、

かと行って逃げ出せるわけでもなく

私はただただ黙って、他の家族らのやりとりを見ていた。

 

辛い人の横にいてあげることができる人というのは

本当に強い。

私にはできない。辛い人が横にいることが辛すぎて

辛い人を置いてきぼりにして死にたいって思ってしまう

自分勝手で薄情ものだから。

 

 

そして最後にあった日の1週間後の深夜に

おばあちゃんが亡くなったと

訃報の連絡があった。

 

 

私は悲しい

喜ぶべきなのかもしれないって思っているのに

涙が止まらない。

 

なんども殺して解放してあげたいと

そう思っていた何年間を過ごしていたのに

悲しくて悲しくて涙が止まらない。

 

何を泣いているのかもわからなくなっている。

 

 

私は家族らの前でずっと、おちゃらけた。

葬式でも、極力祖母のことを考えないようにして

涙を流さず、割と笑顔で過ごした。

 

祖母が旅だったことを祝いたいって思うのだ。

なのにふと気づくと涙がでる

そしたらもうだめ、涙が止まらない。

 

祖母が死んだという現状に涙しているわけでない

祖母が痛みから逃れられずに5年もの年月を苦しみ

生きていたということを知っていたにも関わらず

祖母を見ないようにした関わらないようにしていた

よわくもろい自分を

祖母の死をきっかけに直視しているのかもしれない

 

 

 もしくは

祖母が痛みスケールで明かした心の内を

おばあちゃんの人生として受け取ってしまったのかもしれない。

 

なにがなになのかわからない。

 

 

 

だけど、涙がとまらないのだ。

涙がとまらないのは仕方がないとして、

どうするかを考えようって思う。

 

私は例えば自分の死を悲しんで欲しくない。

だから、死んだ時にはさ

生前を思い出せないくらい厚い化粧をしてもらって

見たら笑ってしまうような、わらうのは不謹慎だから笑わないにしても

あとで、すごい顔だったねってちょっと引いてしまうくらい

派手な顔で納棺してもらおう。

 

亡くなった人と話したい、思いを知りたい

そんな気持ちになっている。

今までも年に2回遺書を更新しているけども

これは必須である。

ありがとうや嬉しいよや、思い出の共有をすることで

残された人が、謎に抱えがちな罪悪感

というのを取り除いてあげる必要がある。

大切な人に自分の死を嘆いて欲しくない。

思い出すなら楽しかった思い出を不意に

くらいがちょうどいいに決まってる。

 

 

今、おばあちゃんは裁判にかかってるんだってさ。

死後の世界でも現世と同じように、物事が運ぶとか

辛すぎるし、考えたくないせいで、

お経一言も唱えてあげられませんでした。

ごめんなさい。

 

大丈夫だよ、おばあちゃんは

笑って過ごせる世界に迎えられるから。

本当にバカみたい、そんなお経唱えて

代弁人になるとか。

ちゃんとおばあちゃんをみてよ。

 

私のせいでおばあちゃんの待遇が悪くなったら

最悪だけど、大丈夫。

そんなこと絶対ないから。

 

 

何も気にしなくっていいって

そう思いたい。

 

 

今、一言でも

誰か、なにも事情を知らない人に

私の感情抜きでおばあちゃんはだいじょうぶって

いってもらえたら、きっと私は心から救われる。

そんな気がする。

 

私が欲しいのは、おばあちゃんがもう痛くないってこと。

おばあちゃんが、楽しかった過去をたくさん持っていること。

私がほしいのは、長いこと頑張って耐えていたっておばあちゃんが自分自身を認めてあげられること。

おばあちゃんが、それらをわかって現世を旅立っていった

ってそんな自分勝手なことを誰かが

素直に純粋な気持ちでそう教えてくれたら

、、、、

 

 

つまり、私は自分が欲しい言葉を家族に伝えてあげるべきなのかもしれないね。

家族に手紙をかこうかな。

 

それがいいかもしれないよね。